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"Small is Beautiful" その4 近代経済学と仏教経済学

  29, 2018 20:49
シューマッハ

第4回 仏教経済学
今まで説明してきたように、近代経済学には背景に哲学がなく、どうしても人間疎外を起こしてしまう。やはり、修正が必要なのである。シューマッハ氏はこれを補正する手立てとして仏教哲学の導入を提案している。では、その中味について拝聴しよう。

「・・・経済学者自身は、・・・経済法則は、引力の法則と同じように、「形而上学」や「価値」から解放されているとまで主張する。・・・富の基本的な源泉は人間の労働であるということについては普遍的な一致がある。が、いまや近代経済学者は「労働」ないし仕事を必要悪程度のものとしか考えないようになっている。雇用者の立場からみれば、それはいずれにしてもコストの項目に属するものにすぎず、オートメーションによって、労働を完全に排除することはできなくとも、最小限度に減らすべきものである。・・・雇用者の側からみれば、雇用なき生産が理想であり、被雇用者の側からみれば、雇用なき所得が理想である。
こうした態度の帰結は、理論と実際の両面で計り知れぬものとなる。もし、仕事についての理想がそれから免除されることだとすれば、仕事の重荷を減らすような方法こそすべて善であるということになる。・・・その古典的事例はアダム・スミスの「国富論」の中で賞讃されているピン工場である。ここでの問題は、人類が太古の昔から習練してきた通常の専門化の問題ではなく、生産の全過程を細部に分割することであり、その結果、最終生産物はたいていの場合、人間の手足を動かすだけの未熟練労働者以上のものを誰も提供することなく、非常なスピードで生産されるようになるのである。仏教徒は仕事の機能について少なくとも三重の見解を示している。人間に才能を役立て発展させるチャンスを与えること、協同事業での他の人々と協力することによって利己心を克服せしめること、生存に必要な財とサービスを生み出すことの三つである。・・・仏教徒は文明の本質を欲望の増殖の中ではなく、人間性の純化の中に見出す・・・同時に、人間性は本来、人間の仕事によって形成され、仕事は人間の尊厳と自由を保持する状況の中で正当に行われ、仕事をする人と同様にその生産物を祝福するのである。・・・もし、人間が仕事を得るチャンスがなければ、絶望的立場に置かれる。単に、所得がなくなるからというだけでなく、規律正しい仕事が与えてくれ、る滋養と活力を失い、これはなにごとにもたえがたいものであるからである。・・・(近代経済学者の)仕事を測る基準は所与の期間中に生産される財の総量だけである。・・・これは財の方が人間よりもいっそう重要であり、消費の方が創造的活動よりいっそう重要であると考える点で逆立ちした論理である。それは、重点が労働者から仕事の産物、つまり人間から人間以下のものに移動し、悪の力への屈伏を意味する。・・・物質主義者は主として財に関心をもつのに対して、仏教徒は主として解脱に関心をもつ。・・・近代経済学者はいつも、より多く消費する人が少ない消費の人よりも“暮らし向きが良い”と想定し、年間の消費量によって“生活水準”を測ることにしている。仏教経済学者はこうしたやり方をきわめて不合理なものと考える。なぜなら、消費は人間福祉の単なる手段であり、目的は最小限の消費によって最大限の福祉を得ることにあるべきだからである。・・・“簡素化と非暴力”は明らかに緊密に関連し合っている。比較的低い消費という手段によって人間の高い満足を生み出す消費の最適パターンは、人々に大きな圧迫感と緊張を感ずことなく生活することを許し、「悪事をなすなかれ、善をなせ」という仏教の教義が行き渡るのである。物的資源はどこでも制限がるので、資源を控えめに使用して彼らの必要を満たそうとする人々は、高度の資源使用に依存する人々よりもお互いに喉元をねらうようなことは少ない。同様に、高度な自給自足の地方社会に住む人々は、貿易の世界に身を委ねる人々よりは大規模な暴力に巻き込まれることが少ないであろう。したがって、仏教経済学の見地からすれば、地方的必要を満たすための地方的資源による生産こそ、もっとも合理的な経済生活様式である。・・・近代経済学は再生可能な原料と再生不可能な原料の区別をしない。その手法はまさに貨幣価値という手段によってすべてのものを同一化し、量を決めるからである。かくて、たとえば石油、石炭、木材、水力といった各種の代替燃料について、近代経済学が認識する唯一の区別は同一単位当たりの比較コストだけである。もっとも安いものが自動的により好ましく、他は不合理で、非経済的である。・・・仏教徒の観点では・・・再生不能の財はそれが必要不可欠のときだけ使用されねばならず、しかも最大限の注意をもって扱われ、節約に細心の注意が払われる。・・・再生不能な燃料の資源は地球上で過度に不均等に分布されており、疑いもなく量的に限界があるので、常に拡大のペースでそれを開発することは自然に対する暴力的行為であり、ほとんど不可避的に人間同士の暴力を誘発することは明らかである。・・・カリフォルニア工科大学のハリソン・ブラウン教授は『人間の未来の挑戦』という勇気ある本の終わりの方で、次のような論評を試みている。「かくて、工業社会は根底的に不安定であり、農業的生存に逆戻りしなければならないと同様に、その内部において個人的自由を提供する諸条件は、硬直的な組織と全体主義的な統制を押し付けるような状況を回避する能力の面でも、決して安定したものではないことがわかる。実際に、工業文明の存続を脅かすような一切の予見できる困難を検討するとき、いかにして安定の達成と個人的自由を両立させることができるかを知るのは困難である。」・・・差し迫った問題は宗教的・精神的価値にかかわりなく現に進められている「近代化」は受け入れられる成果を実際に生み出すかどうかということである。大衆に関する限り、悲惨な結果を生むことは明らかである。地方経済は崩壊し、失業の波が高まり、肉体も魂も満たされない都市プロレタリアートが増加する。当面の経験と長期的見通しの両面から仏教的経済学の研究は経済成長が精神的・宗教的価値よりも重要だと信ずる人々に対しても進められてしかるべきものであろう。・・・」



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