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武士道 その3 「義」

  03, 2018 14:43
武士道
武士道の世界

3.「義」-武士道の光り輝く最高の支柱

(1)「義」は「勇」と並ぶ武士道の双生児である
孟子によれば、要するに「義」とは、人が失われた楽園を再び手中にするために必ず通過せねばならぬ、直なる、狭いみちである。・・・(忠臣蔵の)四十七人の忠心は、私たちが受けた大衆教育では四十七人の義士として知られている。悪辣な陰謀が軍事的策略として、また「まっかな嘘」が策謀としてまかり通っていた時代に、この素直で、正直な、男らしい徳行はもっとも光り輝く宝の珠であった。それは絶大な賞賛をかちえた。義は、もう一つの勇敢と徳行と並ぶ、武士道の双生児である。

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赤穂浪士の物語は、例年暮の行事(映画)であった!



(2)「正義の道理」こそ無条件の絶対命令
「義理」とは文字どおり「正義の道理」である。しかしそれは次第に世論が果たすべき義務と、世論が期待する漠然とした義務感を意味するものになってしまった。その本来的、あるいは純粋な意味のおいて、義理とは純粋かつ単純な義務をさしていた。・・・「義理」とは疑いもなく義務である。というのは、「正義の道理」が私たちになすことを要求し、命じていること以外に、いったいどんな義務が私たちにあるというのだろうか。「正義の道理」こそ、私たちにとって無条件も従うべき絶対命令である。・・・私は、義理は人間がつくりあげた社会の一つの産物だと思う。・・・それはまさにこの人為性のために「義理」は時がたつにしたがってあれこれを説明し、あるいは行為を是認するために引き合いに出される。それは、あいまいな適否を使いわける感覚までに陥てしまった。たとえばなぜ母親は長子を養うために、必要とあらば他のすべての子供を犠牲にしまければならないのか。なぜ、娘は父の放蕩のために費やされた金を得るため、その身を売らねばばならないのか・・・のように。「正義の道理」からはじまった「義理」は、私の考えでは、しばしば詭弁に屈服してしまった。そしてさらに、避難されることを恐れる臆病までに堕落してしまった。・・・もし「武士道」が鋭敏で正当な勇気の感性、果敢と忍耐の感性をもっていなかったとすれば、義理はたやすく臆病の巣に成り下がっていたにちがいない。
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