FC2ブログ

禅の世界-鈴木大拙 『東洋の心』より その1 「仏性」

  22, 2018 09:06
仏教哲学の世界

鈴木大拙著「東洋の心」について解説する。

1.その1 「仏性」
大拙氏は、「悟り」についてこう述べている。
「仏教の上根、下根ともいうもてよし、・・・その上根というような部類に属する人は、どういう人かというと、これはもう先天的に何ら疑いを持たぬ、なにもそう不思議にせぬ人、生まれるときからずっといわゆる、神ながらの人である。べつにものを考えない人、これでいいとか、そういう事をいろいろと問題にせぬ人、ちょうど健康な子供が真っ直ぐにずっと太ってゆくような行き方をする人です。その相撲取りなどを見ておるといかにも楽天的なようなふうに見えるが、体の弱々しい人はなんだか鬱陶しく見える。私はまだ行っていませんが、シナの大同には北魏時代に岩に彫りつけた立派な仏様があるが、その中にことに大きな仏様があります。・・・あの仏像を見ておると、ある美術家の話では、いかにも堂々としていて東から出てくるように思われる、顔つきから、態度から、なんだかいかにも堂々としておって、何の心配気もなく朗らかに見えるというんですが、ちょうど、ああいうような行き方をする人もある。何の屈託も心配もなく、明朗であるから、大男を見るような気持ちがするので、それを上根の人という。天然の宗教的な人なんです。神ながらといえば神ながらの人です。ところが、みながそういう工合にいかないで、下根というような者がいる。この下根という人になると、「どうしてもこれでは・・・」というような事ばかり考えます。いつでも頭を押さえつけられておる。なんだか向かうものに突き当たって、それを破ることができなむというような顔つきをしているわけ、ある意味でいうと多病な人である。一方、上根の人は無類の健康人で、そのままでいい人である。神ながらの人である。・・・それで、上根、下根というふうに分けてみると、上根の人はそのままでよし、下根の人はどうしても、いっぺん生まれ変わるのでなくてはならぬ。・・・生まれ変わるというときには、どういうことになるかというと、いっぺん身を捨てぬといけない。ここに、自分というものがあると思うと、どうしてもいけないから、それで捨てなくてはならぬ。自分の身を捨てるというは、それは真心というか、普通というところの、偽りの心を持っていてはならぬということ、それを見つけなければならぬ。こういう話を、どこかで聞いたことがあるのです。あるお婆さんがいた。これはいかにも信心の厚い人でありまして、まあ朝から晩まで、何をやっていても、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と申しておるというふうで、まあ自分はきっと極楽へ行くと決めている。ところが、その婆さんが亡くなられた。亡くなってどんどん冥土の旅を歩いて行かれると、さる門の所へ来た。きっと極楽の門であろうと思って顔を上げて見ると、あに計らんや鬼がちゃんと番をしている。これはちょっと勝手が違ったなあ、こうお婆さんが思われていると、鬼のやつが、「お前がそこに持っているのはなんだ。」「これは、私が生まれてから称えた念仏でございます。」袋に一ぱいの念仏を持って来たわけ、すると鬼が、「それなら、ちょっと待て」というので、その念仏を団扇であおいだ。そうしたら、念仏がみんな翔びあがってしまった。そうして、何万か何億かあった念仏がなくなってしまったと思ったら、一つだけ残っていた。「これは、どうしたんだ」と鬼がいう。その婆さん、考えてから、「これは、こういうことがあります。私がある時、畑へ桑を摘みに行っておりますと、一天俄に掻き曇って、稲光りがするやら雷がゴロゴロ鳴ってきたので、私は怖ろしくてたまらぬから、一所懸命、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とやりました。」「ウンそうか、それがここへ残っていたんだな。」というような話ですが、そういう時があるんです。これは雷ですが、そうでなしに本当に称えられた一声の念仏が、それが本当の念仏だろうと思う。そういう時が来る時節があります。それがいつ来るかというと、今日か明日かと待っていても、悟りの獣のようになかなか落ちてこない。それなら、ぼんやりしていたらいいというと、そうでない。やはりぼんやりせずにおらなければなりませんが、そこがむずかしいので、まあ、いろいろ有り難い坊さんなどが、その辺のことについて御親切に昔から説教をしてくださったわけであります。・・・」

私は、自分なりにそのいいたいところをこう解釈している。
「人間には「仏性」がある。禅の修行とは、自分の持っているこの仏性を引き出すものではないか、すなわち、修行の中で心を無にして邪心を払い、この「仏性」を体に甦らせ自分の魂を浄化して、思索、行動することではないかと。」
スポンサーサイト

0 Comments

Post a comment

What's New