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大川周明著「日本2600年史」 その4

  24, 2019 19:20


第三章 日本国家の建設
「・・・吾国の古典は、吾が日本民族が、八重に棚引く叢雲を押し分け、高天原よりこの国を天降れることを記している。そは吾らの先祖が、その発祥の地を忘れ去りしを示すものにして、いまや人類学者・考古学者・歴史家が、この高天原を地球上のいずれかに捜し当てようとする苦心にもかかわらず。未だ定説を聞かない。かくの如く故郷も遠祖も忘れ去りしことは、この民族の日本渡来が、悠久の太古に属することを立証するものである。けれども日本民族は、決して一時に渡来したわけではない。恐らく極めて長き年月の間に、逐次この美わしき島国に渡来し、各地に於いてアイヌ人と妥協しまたは之を征服して、それぞれの酋長の下に部族的生活を営んでいたものであろう。而してその発展の径路は、九州より瀬戸内海を経て畿内の地に及べるものと思われる。瀬戸内海は、疑いもなく太古に於ける無比の交通路であった。日本民族は、この大道によって瀬戸内海の沿岸に根拠地を築き、次第に東方に向かって進み、ついに大道の尽くるとこころ、即ち畿内の地に達し、彼らの冒険敢為なる者はさらに陸路東北に進んだことであろう。かくて幾多の日本民族集落がかくて幾多の日本民族集落が内海沿岸に形成された。さて、大和民族はもと南方の民なるが故に、文化と平和を愛する性格をもっていた。しかるにこの日本諸島に於いて吾らの祖先は北方の強者アイヌ人と生存競争を営まなければならなかった。けれども旺盛なる発展的精神を有する民族にとりて、強敵の存在は決して悲しむべきことではなく、寧ろ祝すべきことである。なんとなれば民族の進路に強力なる競争者あることは、彼らをして苟安(安楽を貪ること)と惰弱とより免れしむべき厳粛なる警鐘となるからである。もし吾らの祖先が、アイヌ人という勇武なる先住者をこの国土にもたなかったならば、あるいは南方民族に免れがたき文弱に陥り、今日の如き国家の建設を不可能としたかも知れぬ。幸いにアイヌ人との競争の間に、吾々の祖先は、南方の文に加うるに北方の武をもってした。而してよくアイヌ人との角逐に打ち勝ち、北へ北へと追いやりて、自ら代わって日本国の主人公となりし頃は、戦争に於いて雄々しく、平和の仕事に於いて優しく、詩歌を歓び、女性を尊重し、自然と人生とに現れたる力と生命を崇拝せる、一個堅実なる民族となっていた。即ち幾世紀にわたる奮闘と努力によってその生活を確立して行った間に、彼らは一個の民族として諸々の性格を形成し、自余の諸民族に対して自家独自の面目を有する日本民族として、歴史の表面に現れたのである。・・・日本民族をしてかくのごとく文武兼備の民たらしめたのは、決して自然の感化だけではない。そはすでに述べたる如く、アイヌ人との生存競争があったからである。アイヌ人は「山を行くこと飛禽のごとく、草を行くこと走獣のごとし。恩を承けては即ち忘れ、死を見ては必ず報ぜんとす」という凶暴なる民なりしが故に、吾らの祖先にとりて手強き敵であったに相違ない。・・・かくのごとき強敵と戦いつつありし間に、自ら民族的自覚を生じ、民族的自覚は民族的統一の精神を強くした。かくて日神の裔を首長と仰ぎ、血を同じくする諸部族が、共同の敵に対して次第に一致団結するに至り、ここに国家建設の基礎が不知不調の間に出来上がった。さて日本国家の基礎を築き上げられたのは、言うまでもなく神武天皇である。天皇の東征を当時の事情より推して、『日本書紀』の伝うるごとく、最初より大和を目指して高千穂宮を発向されたものとは思われない。そは『古事記』の伝うる如く、日本国を統一するに最も形勝なる地を求める東征と見なければならぬ。かくて安芸に七年、吉備に八年居られたが共に天下に号令すべき地にあらずと考えられたので、さらに東へ東へと進み、ついに大和に到りてその求めたる形勝の地を見出し、ここに国都を奠められたものと思われる。故に神武天皇の東征は、決して大和平定の目的にあらず、実に日本国土の統一を目的とせられ、大和平定によってその基礎を築き給えるものである。・・・『古事記』及び『日本書紀』の編纂された頃には、日本に住めるすべての国民は、いわゆる「一氏蕃息(繁殖)してさらに万姓と為れるもの」として、もはや本来の部族的感情を失い、先住民族の子孫も、はたまた帰化人の子孫も、悉く神武部族を中心とせる大和民族に同化せられ、日本国民としての意識が明確になっていた。・・・」
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