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若者に問う-中華思想の欺瞞  Deception of Sinocentrism

  26, 2018 11:29
沈思黙考4

石平1
石平氏著作「なぜ中国はいつまでも近代国家になれないのか」にもとづき、中華思想について解説したい。

氏いわく、「中華思想」の源流は張之洞が説く「聖教」にある。では、その聖教とは何か?氏いわく、

「その代表作(張之洞)の『勧学篇』のなかでこう強調している。「三綱、つまり君臣・父子・夫婦の守るべき道徳は、中国の歴代聖人たちが伝えてきた立派な教えであり、礼楽と政治の根源で、人間と禽獣の別を示す砦である。それをもって儒学の伝統を保とうとするのである。

中華思想

つまり張之洞はここでは、「中国歴代聖人の伝える教え(聖教)」たるものは、人間と禽獣を区別するための物差しであるとの認識を示している。もちろんそれは張之洞の個人的な考えではなく、科挙制度のなかで育った中国の伝統的知識人が抱く基本的な認識である。しかし、このような認識からすれば、中国の聖人の伝える「教え」がわからない者たちは、もはや人間にあらずして禽獣同然であるとの考えが成り立つのであるが、じつはこのような考えにこそ、中国伝統の核心思想の一つである「中華思想」が隠されている。そう、張之洞の世代に至るまでの中国の伝統的知識人の意識のなかには、中国の「聖人の教え」をわかっていて、それを遵守している人間こそが文明人としての完成した人間であって、それ以外の人たちは人間でないような「野蛮人」にすぎない、との考えである。したがって、「聖人の教え」を誰よりも体得している自分たちこそが本物の文明人として、文明の中心地から周辺の野蛮人たちを見下ろすような優越感をもちうるのである。
これこそが伝統的な中華思想の根底にあるものであるが、洋務官僚としての張之洞も最後のところで、この中華思想の塊なのである。そして中華思想の見方からすれば、「聖人の教え」がわからない西洋人は、所詮禽獣以下の者たちとなってしまう。結局、「西洋の学問を学ぼう」と唱えながらも、張之洞とその同時代の中国のエリートたちは、本心では西洋人のことをむしろ「人間以下」と蔑視しているのである。
実際、張之洞の『勧学篇』のなかには、清王朝の「仁政」に最大限の賛辞を捧げながら西洋を極力貶めるような次の一節がある。

「(清王朝)良い法律と善政をあげれば書き尽くせないほどである。代々それを受け継ぎ、慎重に守り、家と心の掟を修めて道を改めることなく、すでに254年に及んでいる。そして、天下の臣民は、毎日のように高い天と厚い地の中で遊び、長く養われていて恩沢を蒙って今日に至った。試みに中国の歴史2千年」のうち、西欧の歴史五十年以前を考えてみても、これほどまでに寛大な愛と厚い真心のある政治はあったであろうか。中国はけっして富強ではないが、天下に人々で富貴貧賤の違いにもかかわらず、誰もが生活にゆとりをもち、それぞれに人生を楽しんでいる。西欧はたとえ国勢は盛んであっても、卑しい人民の苦しみうらむ者は、心がふさがってのびのびとせず、好機を待って暴発する有様である。だから国君を殺害して大臣を刺殺するなど、記録されない年はなかったほどである。」

西欧の「悪政」と対比しながら清王朝の「仁政」に絶賛を捧げる張之洞のこの一文を読んだとき、私はつい噴き出してしまったことを、いまでも覚えている。清王朝の「仁政」の下で「天下の臣民は、毎日のように高い天と厚い地の中で遊び、長く養われている恩沢を蒙って今日に至った」といった描写は、当時の中国をまるで「極楽浄土」であるかのように極力美化しているが、もちろんそれは張之洞一流の嘘八百であろう。もし当時の中国の現実が「誰もが生活にゆとりをもち、それぞれの人生を楽しんでいる」ような状況であったならば、太平天国などの民衆の大反乱が起きてこなかったはずである。・・・「中華が世界一」だと頑なに信じてそれを絶対化していながらも、この「中華」を守っていくための一手段として西洋から学ばなければならないというのが、まさにこの時代に生きる張之洞たちの信念なのである。・・・張之洞のような人物ですらも結局、中国伝来の「中華思想」の揺るぎない信奉者であったことは、歴史の皮肉であろうが、じつはこの皮肉の背後には、中国という国の限界とその悲劇の根拠が隠されている。明治期の日本人はまず一度、自分自身を捨てるような覚悟で虚心坦懐に西洋を学び、国を挙げて「文明開化」を徹底的にやり遂げた。その結果、日本という国は急速な進歩と発展をなしとげてアジア随一の近代国家に成長できた。しかしそれに対して「中華思想」の砦を死守しようとして本当の意味の「文明開化」を拒否した。その結果、西洋と日本をたんなる「道具」として見なす張之洞たちのご都合で潰されることになるのである。・・・欧米先進国から新しい技術や知識を導入して中国の近代化に資するものの、西洋文明の基本要素である民主主義と自由の価値観は頑なに拒否している。その結果、現代の中国は世界の経済大国となっていながら、政治の面では張之洞が生きた時代の清王朝と変わらないような古色蒼然の国である。こうして見ると、今日に至るまで中国が依然として完全な近代国家になりきれなかった最大の理由の一つは、やはり、張之洞の亡霊がいまでも生き続けていることにあるのだろう。中国はいつになったら。「張之洞」に永遠の決別を告げることができるのだろうか。」

以上のように、中国は依然として「中華思想」という心の桎梏に縛られ、西欧的民主化への道を閉ざしている。私は思う-「中国人が幸せを手に入れるためには、こうした選民思想を捨てて、民主化の道を歩み、普通の人間、地球の一員にもどることではないかと。」
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